日本と世界の未解決事件を1日1個、酒の肴にする連載。最後に「今どうなってるか」を判定する。【未解決】【時効】【冤罪】【真相不明】、主にこの4つや。
今日は笑ったらあかん回や。一家4人が襲われて2人が亡くなった。犯人やない23歳の青年が、そこから34年半、死刑囚として生きた。日本で最初に死刑囚が無罪になった事件や。
1948年12月、人吉
1948年12月29日の深夜から30日の未明。熊本県人吉市で、祈祷師の一家が襲われた。夫婦2人が亡くなり、娘2人が傷を負うた。書くんはここまでや。
年が明けて1949年1月13日、警察は免田栄いう23歳の青年を、別の窃盗の容疑で逮捕した。3日後の16日に、この事件で再逮捕。取り調べで自白した。ほんで公判で撤回した。1950年3月23日、熊本地裁八代支部で死刑判決。控訴も上告も退けられて、1952年1月5日に死刑が確定した。
事件から3年。ここで免田さんの時間が止まる。
6回目の請求
免田さんは、拘置所から再審を求め続けた。1回、2回と退けられ、5回目まで全部あかんかった。死刑囚が再審を求めるいうのは、退けられたら次の日に執行されてもおかしゅうない立場で国と喧嘩する、いうことや。
拘置所の中で、免田さんは日記と短歌を書き続けた。その記録はのちに本になっとる。書くことが、生きる側に自分をつなぎ止める仕事やった。
6回目の請求で扉が開いた。1979年9月27日、福岡高裁が再審開始を決めた。決め手は、凶器とされた鉈の血液型と、傷の順序についての新しい法医学の鑑定や。もう一つ、免田さんには最初からアリバイがあった。事件の夜、別の場所におった、いう証言や。せやけど当初の捜査で、証人は誘導されて日付を違えて証言させられた、とされる。アリバイは、あったのに使い物にならん形にされとった。証言を歪めるいう型は、松川事件(#67)で諏訪メモを出さんかった型と根は同じや。
1983年7月15日、熊本地裁八代支部が無罪を言い渡した。検察は控訴せんかった。7月28日、無罪確定。日本の裁判史で、死刑が確定した人間が再審で無罪になったんは、これが最初や。
拘置された日数は1万2599日。34年と6か月。23歳で入った青年が、57歳で出てきた。国が払うた刑事補償は9071万2800円やった。
時効は、1963年に過ぎとった
ここでいつもの話や。殺人の時効は当時15年。1948年の事件やから、1963年に来た。そのとき免田さんは死刑囚として11年目を迎えとった。真犯人は、一度も追われんまま法の外へ出た。
免田さんが出てきた1983年、事件からは35年たっとった。無罪判決は、この事件を「解決済み」の棚から「永遠に未解決」の棚へ移した。移した先の棚には、もう誰も手を伸ばさん。祈祷師の一家を襲うた人間は、そのとき何歳やったんか。誰も知らん。知る手段も、もう残っとらん。
最初の一人の役目
免田さんの無罪のあと、翌1984年に財田川事件(#69)と松山事件(#72)、1989年に島田事件(#71)が続いた。1980年代に死刑囚4人が再審で無罪になった。免田さんは、その最初の一人やった。
出てきたあとの免田さんには、もう一つ問題があった。年金や。拘置所におった34年は年金を掛けられん。出てきたら無年金やった。免田さんの訴えで、2013年に特例の法律ができた、とされる。国が間違えて預かった年月の穴を、国が埋めるのに30年かかった。
出てきたあとの免田さんは、講演で全国を回った。自分に何が起きたかを、何十年も語り続けた。ほんで2020年12月5日、95歳で亡くなった。無罪になってから37年。拘置所におった年月より、外におった年月のほうが長うなった。それだけが、この話の中で数少ない救いや。
ほんで判定やけど
【冤罪】や。
死刑判決は再審で覆り、無罪が確定した。真犯人は分からん。時効は1963年に過ぎとる。
異説を併記する。「再審無罪は証拠不十分なだけで、無実の証明やない」いう声は、冤罪事件には必ず付いて回る。せやけど刑事裁判は、有罪を証明できんかったら無罪や。それが制度で、その制度が34年遅れて動いた。俺は判決に従う。
ほな、今日は静かに一杯や。