日本の「大人の文化」を1日1個、酒の肴にする連載。仕組みと歴史の話や。最後に「今どうなっとるか」を判定する。【現役】【消滅】【変身】、主にこの3つや。
今日は「エッチ」や。日本で一番仕事をしとるアルファベットの話や。あんなもん、ただのHや。それがいつのまにか形容詞になって、動詞にまで昇進した。
Hは、変態のH
まず語源や。説は山ほどあるが、いちばん古い史料の裏付けを持っとる有力説はこれや。「変態」のローマ字表記、hentai の頭文字のHや。
注意してほしいのは、こっちのHは「エイチ」やなくて「エッチ」と読むことや。アルファベットのHと、日本語の性を表すHは、読みが違う。同じ文字が二つの人生を生きとる。片方は英会話教室で、片方はこっちの世界で働いとる。
「変態」自体も、もとは生物の変態(へんたい)と同じ漢字や。サナギが蝶になる、あれや。それが心理学・医学の用語を経て、日常の罵倒語になって、最後に頭文字だけが取り残された。単語が死んで、イニシャルだけが生きる。言葉の生態として、なかなか変わった一生や。
1952年、女学生の隠語やった
このHが最初に記録に現れるのは、1950年代のはじめや。1952年4月13日号の『週刊朝日』に、女子学生の隠語として載っとる。キャンパスの中の言葉やった。意味は「変態」、ようするに人をたしなめる言葉や。下品な言葉やのうて、女学生が先生や男を評するための、身内の符丁やった。
それを全国に広めたのが新聞小説や。1955年から56年にかけて、朝日新聞に連載された舟橋聖一の『白い魔魚』いう小説がある。そこに「Hは変態の頭文字」いう記述が出てきた。新聞は偉大や。女学生の隠語が、全国のお茶の間に届いた。口裂け女のときも書いたけど、噂でも隠語でも、活字に乗った瞬間に全国区になる。1955年にそれが起きとる。
一個だけ補足しとく。隠語の世界では、こういう「元の言葉の切り売り」は珍しゅうない。頭文字だけ借りる、最後の字だけ使う、逆さに読む。身内にしか分からんよう加工するのが隠語の仕事や。Hが特別やったのは、その加工品が元の意味ごと全国に流出したことや。隠語は漏れた瞬間に隠語やなくなる。
1980年代、動詞になった
ここからが面白い。Hは最初、「あいつはエッチや」いう形容詞やった。変態を指す言葉や。
それが1980年代に動詞になった。「エッチする」。動詞化した時点で、この言葉の意味は「変態」から「行為そのもの」の婉曲表現に変わっとる。お笑いの人がテレビで使い始めたのがきっかけとされる。誰が最初かは、明石家さんまいう説と島田紳助いう説がある。コンビの時代や。
よう考えたらすごい変化や。もとは人を罵倒する言葉やった。それが婉曲表現に出世した。日本語は直接言わんための言葉を、次々量産する。「ピンク」もそうやった。エッチもそうや。言いたいのに言わん。その距離感を、言葉が引き受ける。
語形のバリエーションも増えた。「エッチな人」のエッチ。「Hな本」のH。アルファベット表記とカタカナ表記が混在しとる。一文字やったもんが、二文字の言葉になって、品詞まで増やした。出世街道としては満点や。
ほんで判定やけど
【現役】や。
Hは今も現役や。形容詞としても、動詞としても、毎日どこかで使われとる。しかも元の「変態」いう意味は、だいぶ薄れた。語源を知らんまま使っとる人のほうが多いやろ。言葉は親を忘れても生きていける。
海外の人が日本語を学ぶと、このHで躓くらしい。「英語のアルファベットやのに英語の意味がない」て。和製英語の中でも、トップクラスの詐欺や。まあ日本の英語は、だいたい日本語やからな。
ところで元の「変態」はどうなったか。こっちはこっちで現役や。ただし今では「変態」のほうが、よっぽど強い言葉になった。婉曲のほうが本家より長生きする。日本語の衝撃緩和装置は、本体より頑丈にできとる。
親子で意味が分かれた例は、ほかにもある。「あの人、エッチやから」は軽い悪口ですむ。「あの人、変態やから」は、もう通報の域や。同じ語源のはずが、一方は笑い話で、一方は事件の匂いや。70年で、ここまで育ち方が変わった。
ほな、今日は日本語のHの仕事量を労いながら飲も。アルファベット26文字の中で、一番えろう働いとる。
この回の棚はAmazonと楽天のリンクや。買うてもろたら店にいくらか入る。