アテになる話4F 昭和文化史

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街頭テレビテレビは先に、駅前におった

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昭和の暮らしを1日1個、酒の肴にする連載。事件でも制度でもない、普通の人の普通の暮らしの話や。最後に「今どうなっとるか」を判定する。【現役】【消滅】【変身】、主にこの3つや。

今日は街頭テレビと力道山の話や。テレビが家にない時代、テレビは駅前におった。


テレビが「町のインフラ」やった時代

まあ座り。今、うちの家にもテレビはある。あんたの家にもあるやろ。見るかどうかは別としてな。

せやけど1953年、テレビ放送が始まった年、日本でテレビを持っとったのは900世帯ほどやった。900世帯やで。価格は1台20万円前後。勤め人の月給が1万円ちょっとと言われた時代や。月給の1年半分。家の大黒柱が1年半飯を食わんと買えん箱や。

そこで放送局がやった。テレビを街に置いた。駅前やデパートに大きな受像機を据えて、通りがかりの人に見せる。これが街頭テレビや。売るための実演販売みたいなもんやが、当時の人にとっては「タダで見れる映画館」やった。

ここで一つ、俺の家の話を挟む。うちにテレビが来たのは、俺が小学生になってからやった。白黒で、ダイヤルを回すやつや。親父が「今日からうちもテレビや」言うて運び込んだ日、近所の子供が何人も見に来た。家にテレビが来ると、近所が集まる。街頭テレビが縮んで家に入ったみたいなもんや。ここまでが俺の話。ここから先は調べた話や。

街頭テレビの人気は、プロレスだけやなかった。大相撲の中継にも人が集まったし、1959年の皇太子ご成婚のパレードは、1500万人がテレビの前に釘付けになったと言われとる。このご成婚中継が、テレビを買う家を一気に増やした。街頭テレビが火をつけて、皇室が普及の仕上げをした、いう流れや。

新橋駅前に2万人

1954年2月19日、この日が勝負やった。蔵前国技館で力道山・木村政彦組がシャープ兄弟と対戦する。日本で最初のプロレスのテレビ中継や。

この日、新橋駅西口広場の街頭テレビの前に、2万人が集まったと言われとる。2万人や。画面の中の力道山が空手チョップを繰り出すたび、駅前が揺れた。2月19日は今も「プロレスの日」いう記念日になっとる。

なんでプロレスが当たったか。解説いらんのや。大きい悪役がいて、日本人の英雄がそれを倒す。言葉がわからんでも、子供でも、初めてテレビ見た人でも一発で分かる。力道山はテレビいう新しい機械に、内容をくれてやった。テレビは力道山に観客をくれた。両方が儲かった。

この中継のあと、日本テレビはプロレスをレギュラー番組にした。1958年からは金曜の夜にプロレス中継が始まって、これがまた爆発的に見られた。テレビ局にとってプロレスは「安く作れて数字が取れる」ドル箱やったし、力道山にとってテレビは日本中に自分を売り込む装置やった。テレビ史の最初のヒット番組は、プロレスやったと言うてええ。

街に置かれたテレビは、あっという間に消えた

街頭テレビは、実は数年で消えた。

理由は明快や。テレビが安くなって、家に入ったからや。1950年代の終わりには普及率が上がり始めて、1964年の東京五輪までには、ほとんどの家にテレビが入った。わざわざ駅前まで行って立ち見する理由がなくなったんや。メーカーも「1インチ1万円」いう掛け声でどんどん値下げした。あっという間に、テレビは「街のもん」から「家のもん」になった。

力道山自身も、テレビの外でいろいろあった。1963年、まだ40歳前で亡くなった。スターの人生は置いといて、話をテレビに戻す。

ほんで判定やけど

【消滅】や。

駅前にテレビが置いてあって、知らん人同士が立ち見で肩を並べる。あの光景は消えた。

せやけど一つ、異説がある。形を変えれば、街頭テレビは今もある、という言い方や。サッカーの日本代表戦の日、公園やスタジアムに巨大スクリーンが出て、何千人が同じ画面を見上げる。パブリックビューイング、いうやつや。あれは街頭テレビの孫やと、俺は思う。テレビが家に入っても、人は大きい画面の前で群れたがるんや。消えたのは機械で、群れたがる性分は消えてへん。

ほな、今日は家のテレビの前で、昔の映像でも眺めて飲もか。力道山の試合は、今はボタン一つで見れる時代や。


この回の棚はAmazonと楽天のリンクや。買うてもろたら店にいくらか入る。

帰りに寄る棚PR力道山 DVD駅前に2万人は集まらん。テレビの前で一人で見え。無理して買わんでええからな。Amazonで見る楽天で見る

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